人間・生き方について | 人生を楽しく生きるために!

アセンションにおけるビジネス

2012年のアセンションでは個人のみならず地球を含め、宇宙規模でのアセンション(次元上昇)が始めリます。
次元上昇ではどういうことが起こるかというと、簡単に言えば、人間、動植物、その他もろもろの意識が高度なものとなるということで、そうなればこれまで隠されてきた社会の膿や様々な矛盾があきらかになっていくるでしょうし、また本当に純粋な心、まっすぐで正直な人が日の目を見る社会になるということです。
またそれに伴い、これまで続いてきた資本主義の世界も、まさに現在その矛盾がいろんな形で露呈されつつあるように、急速な崩壊に向かうということになります。
これまでの資本主義社会を支えてきた工業や商業は、物を製造することによって社会を便利にし、そして人間はそれを購入し、利用することによって楽しい生活を送ることが可能となりました。しかし、これらの製造物はもうすでに飽和し、デジタル液晶テレビなどに見られるように、新しいモデルを次々に生み出していっても消費が追いつかず、価額崩壊を起こし、企業の利益も見込めない状況になりつつあります。
企業が利益を出せないということになれば経費の節減や、社員を解雇して人件費を削ったりしなければ企業もつぶれてしまうわけで、失業者の増加、ニートと呼ばれる低所得者層の増加などということになってしまいます。
リーマンショックで加速されたこういう現象は資本主義崩壊の前兆であると捕らえられており、私もそのとおりだと感じています。
そこで、アセンションン後には、ビジネスという概念ではどういうものが求められるのかを考えてみました。
アセンション後のビジネスの条件
1.真に人々に楽しみを与え、幸せにするものであること。
  単なる便利さや、ないよりはあったほうが良いとかいうものは不要となる。
2.誰もが利益を得るWIN-WINの関係をつくるもの
  金融商品などのように誰かがもうかるものは誰かが損をしているというゼロサムゲームは必然的に崩壊する。
3.誰からも感謝されるものであること。
  一時的に誰かをだまして利益を得てきたようなものは一瞬にしてなくなる。
  これは宇宙の法則が「誰かに対して行った事は必ず自分に帰ってくる」ことを考えればアセンションでなくても明白です。
4.食料などがなくなり、欲しいものがあったとしても、お金があっても買えなくなる社会の中で、それでもどうしても買いたいという商材でなければビジネスとはならない。(お金が紙くずになってもどうしても買いたいというものとは何か?)
アセンションに向かう過程では、様々な災害や経済的困窮、食料の不足など様々な障害が予測されますが、そういう極限の状況でもアセンションに向かって生きる力を与えてくれる歌や小説、言葉などはそういうものでしょう。しかし、こればビジネスとすべきものなりえませんね。人が感動するようなものは無償の愛がなければならないですから、結果的には大金が得られたとしてもビジネスの材料として考えるべきものではないでしょう。
コールマンインデックスの第九のサイクルは今年の3月9日に突入し10月28日で終わるとも言われています。ということは来年ではなく今年からアセンションが始まるのかも知れません。
いよいよ近づくアセンションに向かって、自分がどのように生きていけば良いかを真剣に考える時期かと思います。
アセンションの時代はマネーフリーの時代、紙幣のいらない時代になるといわれます。
もうそうなれば利益を求めて仕事をするということはなくなり、ビジネスという言葉は死語になってしまうのでしょうね。
ワクワクするような世界です。
注)2012年にアセンションが起きるといっても物理的な事象が起きるということではないとのことです。しかし、一部の人にとっては革命的な何かが・・・・・

成功と幸せの法則 人生の第二幕とは?

人生には2つのステージがあると言われます。
演劇で言えば第1幕と第2幕というわけですね。
第1幕は簡単に言うと
・社会で起きる出来事を真実として信じる段階
つまり、学校の教育や、親兄弟または社会の中で生きてきて、自然自然のうちに次のような思い込みによって支配されている段階。
1.人生に苦労はつきものである
2.人はみな老いる
3.生活するためには働かなければならない
 
第2幕は
・それが真実であるという思い込みを手放す
 私とは神の現れであり、完全無欠の存在であることを知る
 自分と周りの人々やものはすべて一体、ひとつのものであることを実感する。
このようなことを自覚し、今までとまったく違った意識のもとに人生を歩みだす段階です。
これまでの社会では第1幕で人生を終わってしまう人がほとんどであったように思えます。
しかし、近年、人生の第2幕めに入ってくる人がだんだん増えているのがはっきりと感じられます。
中にはもう子供のうちからそういう考え方を身に付けている人もいるようで頼もしい限りです。
人生の終盤でもそれに気がついて、本当に生まれてきてよ方という人生を終えられるようになればすばらしいですね。
人生というゲームで遊ぶ
 人生の中で起きる出来事や状況をすべて良く出来た芝居として楽しく鑑賞する。
 神の現われとして眺め、感じてみる。
こういう生き方ができるということがアセンションなんですね。

地球は宇宙の大劇場

先日インドのサイババ様がなくなられました。予言していたよりも早くなくなられたとのことですが、ここに深遠な神様のシナリオが感じられるように思います。
サイババさんの「この世の出来事はみなリーラ(神の戯れ、神の庭の遊戯)である」という言葉は忘れられないものです。
この、世の中はみな神の大劇場であるという話は最近はいろんな本で語られることが多くなりましたが、辛いことがあるとき、また何とも憎憎しい思いをする時などにこのことが頭に浮かび、つらい出来事もスーと楽になるとともに、本当にこの世に生まれたことの喜びを感じることが出来ます。
人間は地球に生まれてくる前に、地球上で不自由な肉体をまといながらも、肉体でしか体験できない、または肉体をまとってこそ大きく魂を飛躍させる様々な経験を積むための「ものがたり」を用意します。
そしてその「ものがたり」を最も効果的にするために、善人役、悪人役、親の役、恋人役など様々な配役を決めます。
時には悪人役、憎まれ役などは、いやでも泣く泣く引き受けることもあるようです。そうまでしてみんなの魂の成長を願って、深い愛情に包まれてこの世に生まれてくるのですね。また、本当にこれは監督でもある神様の愛以外の何ものでもないと思います。
しかし、生まれた途端にみんなそのようなあの世での取り決めは忘れて、すべての人がその役になりきってしまい、現実の苦しさや憎しみにはまり込んみ現実であると思っていまうのですね。
殺してやりたい程憎い人間でも、本当は気づきのために泣く泣く憎まれ役を演じてくれている魂であり、自分の至らぬところや意識の間違いを教えてくれる先生だということです。
病気や別れ、絶望や挫折なども一見不幸せな出来事に見えますが、これも神の愛の表れであると思うと自然に感謝の言葉が口をついて出てきます。まさに神様のリーラです。

震災で思うこと

震災に合われた人や亡くなった方はたいへんで、ご冥福を祈りたいと思いますが、このことがあって、若くして難病など死の淵にあり、「なぜ私だけがつらい目に!」などと思っていいる方々には、死んだり、病気になったり、財産を失ったり、突然そのような目にあうことは自分だけではないのだという運命の仕組みに気づき、勇気と慰めを与えられることもあるようです。
人生の極意は「中今に生きる」ということに尽きます。自分に与えられた今の瞬間瞬間を精一杯、それも幸せな気持ちで楽しむこと、いつも愛情一杯で自分からあふれるものを回りに与えることだと思います。自分を愛して自分に愛情が一杯でなければ周りに愛を与えることはできません。
今回の震災は世界に次々と起きることの始まりです。
日本人の今回の震災への対応が世界中のお手本になるでしょう。日本人が本来持っているけれども忘れ去られた
ように見える、思いやりと助け合いの精神が試されているのだと感じます。
亡くなった方には申し訳ないのですが、人生には偶然はありません。被災された方々もこのような世界へのお手本を示すための大きな役割を担うために、勇気を持って、身をもってそのドラマに参加された勇敢な魂であると、敬服せざるを得ませんし、さぞ霊界では祝福されて迎えられているのではないかと思います。
財産や地位や名誉や競争などはこれからどうでもいい時代が来ます。
今は素晴らしい時代を迎えるために一旦全てを崩壊させる時です。
素晴らしい時代はあと1,2年で始まります。楽しみに待ちましょう。
みんなで精一杯自分を愛してあげましょう。
世の中には良いことも悪いこともありません。世間で言われる悪いこと、殺人でさえも戦時には英雄です。
自分の中のやさしさを大事に育て、愛にあふれる存在になりたいですね。

アセンションに向かって

アセンションに向かって、自然や植物さんとの対話や気の交流が必要ではないかと思っています。
また植物を種から育てること、おいしい無農薬野菜の楽しみを味わうためにもベランダ菜園を始めることにしました。
今から成長が楽しみです。
3分ではじめる!簡単ベランダ家庭菜園「ハッピーベジタブル」

いつも心に止めておきたいこと。

さとりを開いた生き方には3つの側面があるそうです。
抵抗しない。
判断しない。
執着しない。
わかってはいても凡人はすぐに忘れて迷走状態に!
いつも心に止めておきたいですね。

この百年に一度の不況の時代に!

皆様新年おめでとうございます。
なかなか書き込みができず申し訳なく思っております。できるだけこれから書き込みをするように心がけたいと思っています。
最近は世界的に経済的不況が起こっており、百年に一度の不況とも言われています。
たしかに経済的な側面から見るとそういう状況ではあるのですが、しかし私はこれはこれまでの価値観を大きく変えなさい、そうすれば人間にとって素晴らしい未来が待っているよという天の恵みではないかと思っています。
この大不況で世界的なコングロマリットの社長が会社の経営に行き詰まり、会社運営に耐え切れなくなって自殺したなどの報道もされており、このようなことが次々と起こっているのです。このような減少が起こるのは、これまでの従業員をロボットとみなすような経営、他者をけおとしても自分の会社さえ繁栄すれば良いといった経営など、旧来の経営感覚ではこれからの世の中での役目を果たすことができなくなったということの証ではないかと思っています。
私のところに定期的に配信されるメルマガに以下のような話がのっていました。

前回の世界大恐慌は1929年のもの(60年前)が最大のものといわれています。そのときにも日本経済は痛烈な打撃を受け、深刻な混乱に陥り、工場閉鎖や首切りが一般化し、街には失業者があふれ、社会不安が一挙に高まっていました。
 松下産業も売り上げが止まり、倉庫は在庫でいっぱいになり、当然の成り行きで、会社が潰れてしまいますから、幹部社員からは、「従業員を半減し、この窮状を打開しては」との進言がありました。
 ところが、松下幸之助氏は「生産は半減するが、従業員は解雇してはならない。給与も全額支給する。工場は半日勤務にし、店員は休日を返上し、ストックの販売に全力を傾注してほしい!」と、幹部社員に指示したのです。
 松下幸之助氏のこの方針が全従業員に告げられると、首切りを覚悟していた全従業員が一斉に歓声を上げたのです。
 おのずから一致団結の姿が生まれ、全従業員が無休で販売に努力した結果、2ヵ月後にはストックは一掃され、逆にフル生産に入るほどの活況を呈するに至ったのです。
 松下幸之助氏は、従業員をわが子のように思っていました。ですから絶対に解雇してはならない!と、決めていたのです。
 
 その後も、どんな苦境にあっても、彼の従業員を大切にする方針は貫き、世界の松下に繁栄させたのです。
 松下幸之助氏は、「松下電器は何を作っている会社ですか?」と、尋ねられて、「松下電器は、人を作っている会社です。」と、答えたのは有名な話になっております。

この厳しい現代こそ、このような人間味のある経営が必要だということではないでしょうか?
世の中ではこのような激動の時代を乗り切るには改革が必要であると、事々に叫ばれるのですが、その改革の中身をよく見てみますと、人件費や予算などの経費を節減し、それをがまんすることが意識改革なのだということのみをクローズアップし、本当に必要な愛情あふれる経営(国家運営)への変革とは全くかけはなれたものとなっていっていることが悲しいことです。
最後にこのような問題がおこるのもそれぞれみんな「自分の責任で自分がつくったもの」ですね。こういうときこそ潜在意識のクリアリングが必要です。
Just di it! クリアーあるのみです。ホ・オポノポノで素晴らしい世の中にしていきましょう。
愛しています
許してください
ごめんなさい。
ありがとうございます。

ガルシアへの手紙

人間の生き方、あるいは仕事に対する姿勢として、こういうようにあれたらいいなということは誰しも考えることでしょう。
 ある時ふと手にして、社会人になる息子たちにも是非読んで欲しいと思っった本があります。
それはガルシアへの手紙という本です。その感動的な素晴らしい本を紹介してみたいと思います。

キューバ事件に関するあらゆる事柄の中で、ある人物の存在が、私の記憶の中では、火星が大接近してきたときのごとくはっきりと抜きんでている。
かつてスペインと合衆国の間に戦争が起こったとき、早急に反乱軍のリーダーと連絡を取らなければならなくなったことがある。その男ガルシアは、キューバの山奥のどこかにいるとのことだったが、誰もその所在を知るものはいなかった。郵便も電報も、ガルシアの元へは届かなかった。だが大統領はなんとしてもガルシアの協力を取り付けなければならなかった。しかも早急にだ。
 どうすればいいのだ!
 誰かが大統領に進言した。「ローワンというものがいます。彼ならば必ずや大統領のためにガルシアを見つけてくれるでしょう。」
 ローワンは呼び出され、ガルシアに配達されるべき手紙を渡された。「ローワンという名の男」がいかにして手紙を受け取り、防水袋に密封し、胸の所に革ひもでくくりつけ、四日後の夜に単身ボートにてキューバの海岸に近づき、ジャングルに姿を消し、そして三週間後にキューバ島の別の海岸に姿を現したのか、つまり、いかにして敵地を自分の足だけを頼りに横切って、ガルシアに手紙を配達したのか、その詳細をここに書き記すことは私の本意とするところではない。
 ここで述べたいのは以下の点である:マッキンリー大統領はローワンにガルシア宛の手紙を託した。そのときローワンは、手紙を受け取るに当たって「その人はどこにいるんですか?」などと尋ねなかったのである。なんという男! 彼こそは、その姿を銅像に残し、国中の学校に設置し、もって永遠にその業績をたたえるべきである。
若者に必要なのは、机上の勉強や、あれやこれやの教えなどではない。背筋をビシッと伸ばしてやることである。そうすれば、若者はおのずと課せられた信頼に応え、素早く行動し、精神を集中させ、そして「ガルシアに手紙を持っていく」人物となっていくであろう。
 ガルシア将軍はもうこの世にはいない。しかしガルシアは他にもたくさんいるのだ。
 多くの人手を必要とする大事業を実現しようと努力してきた人間ならば、きっと愕然《がくぜん》としたことがあるだろうが、普通の人間はあまりに愚鈍《ぐどん》で、一つの事業を成し遂げようとする能力も意志も持ち合わせていないのである。
いい加減な手助け、愚かなうっかりミス、どうしようもない無関心、そしていい加減な仕事、こんなものが幅を利かせているのが現状なのだ。
そういうものたちをひっかけたり騙したりおどかしたりして、強制的にやらせるか、お金で釣るか、あるいは神がその善き御心から奇跡を起こし、光の天使をアシスタントとしてつかわされたりされない限り、事業を成功させることはおそらくできないだろう。
 読者におかれてはぜひ以下に示すテストを試みられたい。あなたは自分のオフィスに座っている。そして六人の部下を使っているとしよう。
 ここで誰か一人を呼びだし、こう命令してみるのだ。「百科事典を見て、コレッジオの生涯について短いメモを書いてきて欲しい。」
 さて、部下はすぐに「分かりました。」と言って仕事に取りかかるだろうか?
 おそらくあなたの状況では、そうはならないだろう。たぶん、どんよりとした目であなたを見つめ、こんな質問をいくつか聞いてくるだろう。
 「コレッジオって誰ですか?」
 「どの百科事典を見ればいいんでしょうか?」
 「百科事典のどこに載っているんですか?」
 「私はそのために雇われてるんですか?」
 「ビスマルクとは関係ないんですか?」
 「チャーリーにやらせたらどうですか?」
 「その人は故人ですか?」
 「どれくらい急いでやればいいんですか?」
 「本を持ってきますから、ご自分でなされたらどうですか?」
 「いったい何が知りたいのですか?」
 そして、賭けてもいいが、あなたが以上の質問に答え、いかにして資料を探すのか説明し、なぜそれが知りたいのかも話した後に、部下は部屋を出て、他の部下の助けを借りながら、“ガルシア”を探そうと試みた後で、引き返して「そのような男は存在しません。」と報告するだろう。もちろん私が負けるかもしれない。しかし、平均の法則によれば、私は負けはしない。
 あなたがもっと賢明であれば、「部下」に対して「コレッジオ」は「K」じゃなくて「C」の項にあるんだよと付け加えることはせずに、にこっと笑って「気にするな」と言って自分で探しに行くに違いない。
 こういった自分から行動を起こさず、道徳心のかけらも持ち合わせず、なんのやる気も持たず、みずから進んで気持ちよく頼まれごとを引き受けようとしないなどという行動をするから、真の福祉社会がいつまでたっても実現しないのだ。
自分のためにだって行動を起こさないのに、そんな人たちがみんなのために何か行動を起こすのだろうか? 棍棒でむりやり行動させるナンバー2が必要になるだろう。土曜の番にはクビに対するおそれから、実におおぜいの社員が職場にとどまらざるを得ないのである。
 速記者を募集しても、十人に九人はスペルも綴れず、句読点の打ち方も知らず、しかもなぜそれが必要なのかすら考えていないのだ。
 そのような男にガルシアへの手紙を書かせることができるだろうか?
 「あの簿記係、いるでしょう。」ある大工場で工場長がこう言ってくる。
 「うん、それがどうした?」
 「えぇ、あいつ、計算は立派にやるんです。ですが、あいつを街に使いをさせると、だいたい要件は終わらすんですが、たまに、四軒酒場に寄り道して、大通りについた頃には、何を言われたのか忘れちまってることがあるんですよ。」
 こんな男に、ガルシアへの手紙を持っていくよう頼むことができるだろうか?
 私たちは最近、「非人間的な工場にて虐《しいたげ》げられた社員」や「すばらしい雇い主を捜す浮浪者」に対する、いささか感傷的な同情の念をよく耳にする。
 それにはしばしば、力ある人間に対する厳しい言葉がたくさんくっついていることが多い。それに対して、雇い主に対してそのように言われることは全くない。彼らが薄汚いろくでなしに知的な仕事をさせようとむなしい努力を続けた末に、実際の年より老けてしまったり、何もしないのみならず、背中を見せるとサボりだすような人の「助け」を当てにして長いこと我慢強く奮闘しているのに、である。
 あらゆる店や工場の中で、無駄を取り除こうという努力が日々続けられている。雇い主は、仕事での利益を最大限上げるなどという能力を持ち合わせていない「助っ人《すけっと》」を日々追い出して、代わりの人を雇い続けている。好景気の時でさえこのような努力が続けられているのだから、万が一景気が悪くなって仕事がなくなってきたら、よりいっそう人員整理が激しくなり、能力を持たない下らぬ輩は職を失い、二度と仕事に就けなくなってしまうのだ。
 それが適者生存というものなのだ。自己の利益を追い求めんがために、あらゆる経営者がベストを尽くそうとする、これすなわち、ガルシアへの手紙を運べる人を雇い続けることにつながるのだ。
 私は最近、才能あふれる紳士と知り合った。彼は自分自身のビジネスを運営する能力を持っていないのであるが、それにも関わらず、他人のために役立つことが全くないというのだ。それというのも彼は、雇い主がいつも自分を虐げている、あるいはそういう目的をもって行動しているというおよそばかげた妄想を抱き続けているからなのだ。彼は他人に与えることができない。従って、他人から何かを受け取ることもない。もし彼に、ガルシアに手紙を持っているよう命令したならば、その答えはきっとこうに違いない。「自分で行けば。」
 今夜もこの男は仕事を探して通りを歩き続けるだろう。すり切れたコートのほつれからピューピュー風を通しながら。彼をあえて雇おうというものに誰も心当たりはない。それは彼が先頭を切って不平不満をあおるからなのだ。しかも鈍感ゆえにそれが分からない。分からせるには底のあつい革ブーツでけ飛ばしてやるしかない。
 もちろん、このような心のねじ曲がった男たちなんて、身体障害者ほどの同情に値するものではない。むしろ、同情の涙は別の者たちのために流そうではないか。つまり、偉大なる目的のために就業時間など関係なくひたすら努力している人、そして、自分を無視する者やだらしない無能力者、心ない恩知らずたちを率いて苦闘してきたおかげであっという間に白髪を抱えてしまった人たちにこそ流してやるのだ。もし彼らの事業がなくなれば、そんな輩はたちまち貧乏となり、ホームレスになってしまうのだから。
 私は言い過ぎてしまったんだろうか? 多分そうなのだろう。だが、世界中がスラムを抱えている今、私は成功してきた男たちに激励の言葉をかけてやりたいのだ。彼ら成功者たちは、その目的のために他の人たちの助けを集め、成功してきたのにも関わらず、何も手元に残らないのである。ただ住む所と着るものを除けば、本当に何もないのだ。
 私は弁当箱を持っていって日雇い仕事をしたこともあるし、人を雇ったこともある。だから、両方の立場について何を言うべきかよく分かっている。貧乏なことはそれ自体美徳ではない。襤褸《ボロ》を着ることは誉められることではない。雇い主がみな強欲だとか高圧的だとかいう主張は、あらゆる貧乏人がみな有徳の士であるという主張と同じくらい間違っている。
 私の関心は、「ボス」がいようといまいと、同じように仕事をする人に引きつけられる。彼こそはガルシア宛の手紙を与えられれば黙ってそれを受け取り、無駄な質問もせず、手近な下水道に手紙をこっそり投げ捨てたりせず、よそ事をしないで手紙を届ける男であり、そういう男ならばレイオフ宣告を受けることもなく、高い賃金を求めてストライキを打ったりする必要もない。
文明世界はそのような人間を熱心に捜し続ける一つの長い道程である。そのような男が求めるものはなんだって与えられるだろう。彼のような性格の持ち主は非常にまれであり、雇い主には彼を手放す余裕など持てないものである。彼はあらゆる都市、町や村で――どこのオフィスでも店でも、倉庫でも工場でも――必要とされている。全世界が彼を呼んでいるのだ。
「ガルシアへの手紙を届けられる」人間は、どこでも、本当にどこでも必要とされているのだ。

人生を楽しく生きる・・の真意は?

宇宙を陰陽の原理で説明し、日本よりもむしろ欧米で大人気のマクロビオテック料理の創始者である桜沢如一さんが書かれた1940年発行の「魔法のメガネ」を読み返してみました。
その中にインドの偉大な聖者の一人で、その肖像画がインドの切手にもなり、ガンジーにヨガの指導をしたことがあるといわれる、ヨガナンダ・パラマハンサ(この人が亡くなったときには、遺体が20日経っても一切腐敗しなかったそうです。)の言葉を紹介していたのがたいへん印象に残りました。

人生経験をあまり生真面目に考えないことです。なぜなら、現実界においての経験などというものは夢みたいなものだからです。
人生におけるあなたの役割を楽しむことです。ただ、それがあくまでもあなたの役割であるいうことを忘れないことです。

私はこのブログの表題を「人生を楽しく生きるために・・」としているのですが、その真意はこのパラマハンサの言われたような世界観を基にしていることまで理解していただいていた方がおられたとすれば、大変うれしいことです。
ただうわべだけの「人生を楽しむ・・・」だけれあれば人生ってあまりにももったいないですよね。

人生はすでに決められている

 このことは30年も前からなんとなく感じてきて、そしてその検証をずっと行ってきたことです。
いや、これを正確に記述するとすれば「人生は生まれる前から自分で決めて生まれてきている・・・」という方が正確です。
 つまり人間は、この世に生を受けるにあたって、自分で両親を選択し、また生まれる家の環境を選び、そしてどういう少年時代を送り、どういう学校に入って、どういう教育を受け、どういった就職または仕事を選び、どういった伴侶を選択し、どういう死に方をするかということを既に選択して生まれてきているのだということです。わたしも昔その話を聞かされたときはたいへんな衝撃を受けました。
 誰しも「自分の人生は自分でつくるものであり、自分の努力で切り開いていくものである・・・」「努力すれば自分がどんな人間にもなれる・・」「人生が思い通りにならないのは自分の努力と忍耐が足りないためである・・・」などと教育を受け、その種類の話を際限なく聞かされてきました。特にわたしなどは団塊の世代の真っ只中に生まれ、小さいときから競争社会の中で、人より抜きん出るためにはどうすればよいか・・・」ということを懇々と聞かされてきた者にとっては、180度違う考え方です。
 しかし、ある経験から人生とは何か、人間の運命とは・・・などということに興味を持ち、宗教や古典、生まれ変わり、精神世界などの本を読み漁り、いろんな方の体験などを一貫して追及してきた立場からは、これは真実であると確信できるようになって来ました。
 「すでに人生は決められている」と言いますと、真っ先に誰しもの頭に浮かぶ疑問は「それでは努力なんかする必要はないんですか?」あるいは「それでは寝ていても大学に合格できるということなんですか?」などということです。
 わたしも初めて聞いたときは当然そういう疑問がわいてきましたし、それなりに受験に対しては、すべてのものを投げ打ってでもやってきたという思いのあるわたしにとっては「何のための苦労だったのかな」そんなことがあるはずがないという思いでした。しかし、よく考えてみると一生懸命勉強して希望の大学に入ろうと思って努力している人であれば「あなたが入る学校はもう既に決まっていて、それが最もあなたにとって最善の学校なのですよ。」といわれて勉強をやめる人はいないんですね。「あなたは大会社の社長になれることが運命的に決まっていますよ」と言われて努力をするのをやめて、寝てばかりいるような人ならば、大会社の社長になるような人生として生まれてこない、ということになるでしょう。
 しかし、この考え方を知るということは、本当に人生を楽にしてくれるというか、肩の力を抜かしてくれるというか、私には最大の恩恵となりました。「もう人生は決まっているのだから、いまさらくよくよしたりジタバタしたって仕方がないじゃないの・・・」「いま苦しくたって、もともと自分が選んできたことだし、それが結果的には自分にとって最善の選択だからそうしたんだ」と開き直ることが出来、それであれば、どんなことでも耐えられるような、人生の勇気がわいてきます。
 過去のいやなことも、この考え方に基づけば、なつかしい思い出になりますし、また未来に対する不安もなくなってしまいます。
 そして本当に大切なものは過去や未来ではなくて、今、この瞬間をどう生ききるかということのみになってしまいます。この瞬間瞬間を大切に生きていけば、必ず自分にとって最適な人生が送れることが確信できるということは素晴らしいことであると心から実感できるのです。

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