私たちが生きるうえで幸福になりたいという願望は最も強いものですね。
というより私たちは、いかにして幸福になるかということを求めて人生を必死で生きているといっても言いすぎではないのかも知れません。
この人生の永遠のテーマとも言える、幸福を得るための、もっとも深遠な2つの法則、があります。ここではその2つの法則について考えてみましょう。

1.幸福を得る一つ目の法則 科学的法則

科学的には、原因と結果の法則がすべての基本になっていると言われます。つまり、原因を作り出せばそれに従って結果が生じます。人生、この世は原因と結果の連鎖で成り立っていることはほとんどの人は信じて疑いませんね。

つまり種を土の中に蒔けば芽が出てきます。原因となる種があれば大樹も生じます。
火の中に手を入れればやけどします。
毒薬を飲めば人間は死にます。

原因があれば結果はそれに従うのです。

つまり因果律こそ、生命の過程すべての最も深遠な法則、最も基本的な科学法則です。

2.二つ目の法則 宗教的法則

しかし、宗教的といっても特定の宗教や組織とは全く関係がないのですが、いわゆる科学と対峙するものという広義の意味での考え方として、それよりもっと深遠な二つ目の法則があるといいます。

より奥深いこの法則は、もし知らなかったり、また自分で実験して経験してみなかったらとても信じられないため、気が付かないまま終わってしまう人が大半です。

宗教の世界では言います。結果を生じさせれば原因はそれに従うと・・・。

これは科学的な見地から見れば全く馬鹿げたことです。なぜなら科学的には原因があるからこそ結果が生じるというのですから・・・

ところが宗教では逆もまた真であると言うのです。

結果を創りだして見ましょう。そうすれば原因がそれに従って来ます。

たとえば
あなたがとても幸福に感じる状況があるとします。たとえば愛する人が訪問してきました。

その状況は原因ですね。そしてその結果としてあなたは幸福です。幸福が結果として従って来たのです。

しかし、宗教ではこのようになります。

幸福になりなさい。そうすれば愛する人がやって来る。
結果を創りなさい。そうすれば原因が従ってくる。

この事実を経験した人は、この二つ目の法則は、一つ目の法則よりもっと根本的なそして力強い法則である事にびっくりします。
ただ幸福で在りさえすればいいのです。
そうすれば愛する人がやってくるでしょう。

ただ幸福でありなさい。
そうすればすべてのお金や愛、子供、昇進などあらゆる物事がそれに従って来ます。

3.あなたはどちらの法則を選びますか?

それではこれらの法則のどちらが簡単でしょうか?

それは第2の結果を創り出す方がずっと簡単です。

なぜならまず結果を生じることは、完全に自分次第だからです。

けれども原因の方は自分ではどうにもならないものがあります。

たとえばもし、ある友達と一緒に居るときにしか幸福になれないといったら、その幸福はその友達に、そしてその友達がそこにいるかいないかにかかっています。

また、これこれの財産を得ない限り幸福になれないといえば、その幸福は、世間の経済状態やその他のものに依存することになります。それほどの富が手に入らないとなれば、幸せには決してなれないことになります。原因は私をこえているのです。

しかし、結果は自分の中にありますし、自分次第です。

原因は周囲に、自分の外の状況の中に、自分の外側にあります。

しかし、結果は自分自身です。

もし自分に結果を生じさせさえすれば、原因である外側はそれに従うのです。

幸福を選びましょう。

幸福を選ぶと言うことはあなたは結果を選ぶことになります。

それから何が生じるかを見てみましょう。

歓喜を選んで、それから何が起こるかを見てみましょう。

至福に溢れることを選んでそれから何が起こるかを見てみましょう。

あなたの人生全体がたちまちのうちに変化するでしょう。

あなたは自分の周りに何が起きるかを見ることでしょう。

あなたは自分の周りに奇跡が起きるのを見るでしょう。

これこそ魔術の法則です。

 

 

この世の中が幻想の世界とわかっていても人間は常に悩み続けます。自我(エゴ)の要求を常に満たし続けなければならないことから不安を感じ、完全な平安や満足感を得られなくなるのでしょう。

私の20代の頃むさぼるように読んだバグワン・シュリ・ラジネーシ(OSHO)の本を最近再び興味を持ってパラパラとめくってみて、バグワンの言っていることが非二元、奇跡のコースとほとんど同じである事に気付き、再び感動を覚えています。しかし、逆に20代の頃何度も読んで感動をしたにもかかわらず、その教えが定着していない自分のふがいなさに落胆もしています。

引用するのはバグワンの「マイウェイ」という本からの抜粋ですが、全世界からバグワンのいるインドを求めて来た若者への言葉です。素晴らしいですね。

この考え方を寝ても覚めても無意識に出来るようになることが私の毎日の目標です。

私がここにいるのは他のどこにも在りえないからだ。

そのように「生」が起こったからだ。

あなた方がここに存るのは他のどこにも在りえないからだ。このように「生」があなた方に起こったからだ。しかしそれを受け容れるのは難しい。なぜ受け容れるのが難しいのだろう。それは、受け容れたらあなたがたはもう「生」を操作することができないからだ。そうなったら「生」の方があなたよりも大きくなるからだ。

もし私が、「あなた方は真理の偉大な探求者だからここにいるのだ」と言ったなら、それならあなた方も落ち着くだろう。あなたは偉大な求道者だからこそそこにいる・・・そうだとしたら自我(エゴ)が大いに満たされる.

そうだとしたら離れていくとも選べるのだ。あなたは選ぶ者となり、そうなったら「生」をコントロールすることになる。「生」によってコントロールされるのではなく・・・

だが私はそうは言わない。

私はあなた方がここにいるのは「生」がそのように起こったからだと言う。

あなた方がそう選べたわけがない・・・それはあなた方の選択では無い。

たとえ離れていくと言うことになっても、それとて、あなたが選ぶのではない。それもまたそのそのように「生」が起こるというだけのことだ。

それに、あなたがここに留まることを選ぶにしてもそれもまた選択ではない。

選ぶことなど不可能だ。

選ぶという事は自我(エゴ)のみに可能なこと。

自我が満たされないときには,不安や不快感を覚えるものだ.だから安心して落ち着くためには2つの方法がある。

1つは自我を満たし続ける方法。

もう一つは自我をただ落とせばいいだけのこと。

だが覚えておくがいい。1番目の方法は一時的なものだ。なぜなら自我は、満たせば満たすほどより多くを要求するからだ。それには終わりがない。だからあなた方に言っておこう。

「生」が、私がここにあり、あなた方がここにあるようなそのような形で起こったのだ・・・

そしてまたそれは、今までに幾度もそのような形で起こって来た。同じようにまたこれからも起こり続けることだろう。

もしあなたがこれに気づいたらもっと多くの事柄がすぐにでも可能になるだろう。

もしあなたがこれに気づいたら、あなたよりオープンになり、自分の内に閉じこもることが少なくなる。もっとこわれやすくもっと受け容れるようになる。そうなったらあなたはもう恐くない。そうなったら「生」はあなたを通り抜けていく。

「生」ただそよ風のようになって

 あなたは空っぽの部屋

「生」が来て通り抜ける。

それはあなたをそのままゆるす。このゆるすことこそ秘密のなかの秘密だ。

この故に私は強調し主張する。あなた方は、自分の側の選択によってここにいるではないと言うことを・・・私は私の側の選択によってここにいるのではないことを。

私に関する限り選択は一切ない。

なぜなら私はいないのだから・・・・・

あなた方に関する限りでは、あなた方は自分の選択でここに来ているという勘違いをしているかもしれない。

だがそれは事実ではない。

それに私はあなた方の自我をふくらませるつもりもない。

自我は壊されなければならぬもの。そのことのためにあらゆる努力がなされるのだ。

いかにしてあなた方を壊すかということのために・・・。

なぜなら、ひとたびあなた方の境界が崩れたらあなた方は無限だ.

この今の瞬間にさえ,それは起こりうる。それを妨げている邪魔ものは何もない。

あるのはただあなた方の執着だけだ。

 

お金にどう向き合うかは人生の大きな問題ですね?

お金は私たちにとって大変大切なものです。
人間が成長していく過程で、いろんな人生経験をしますが、その中で、子供の頃に家庭が十分のお金がなくて大変苦労したこと
本人あるいは家族が、事業に失敗したりなど倒産して、お金の工面に困ったこと、

お金に対する不安をあおる様々な出来事は、映画やドラマなどに溢れていますし、お金にまつわるいろんな情報が溢れていることから、お金をもうけたい、またお金をなくしたくない、など男女間の人間関係と同様人生最大の夢と課題となっています。

自分だけはお金に苦労したくない。お金に困ったらどうしよう。などといつも不安におののいているからこそ、若い内に一気にもうけてお金に苦労しない生活を夢見るなどということが若い人々の共通の夢となったりしているのです。

人生がすべて思い通りになった人はお金をどう見ているのでしょう?

私も小さい頃は結構裕福に育ったももの、中学生くらいで父が商売に失敗し、母親が働きに出なければならなかったことなどを経験しました。
また、企業に勤めて結構な給料をもらっていましたが、事業をしたい欲求を抑えきれず、環境関連の事業を興したまでは良かったのですが、資金に行き詰まり、金策に疲れた時には、周りの人々は楽しそうに結構裕福そうにやっているじゃないか。自分だけがなぜ子ども達に食べさせるお金をどうしようと思うような経験をしなければならないのかなど、お金には辛い思いをさせられました。そういう経験もあって私の潜在意識にはお金対する深い思いが染みついていたように思います。

それだけに本業も副業もあわせて、何とか将来苦労しないだけの経済的余裕だけは持ちたいという欲求がずっと心の中にあり、そのためにナポレオンヒルの成功哲学や引き寄せの法則などを熱心に勉強しました。またアレルギーでボロボロになった健康を回復するためと、潜在意識にあるお金の執着が消えるように、スピリチャアルな本も読みあさったりしたのです。

しかし、そういう探求をしている内にわかったことは、そういう現世の欲望を目標として次から次から求めていき、達成していったとしても決して真の満足は得ることが出来ないということでした。

これを示す良い例として、一つのエピソードを引用したいと思います。
この引用は、イギリス人で、非二元(ノンデュアリティー)の若き旗手であるジェフ・フォスターが書いた「もっとも深いところで、すでに受け容れられている」からの引用です。

「私は、40歳を前にして大富豪になった人を知っている。彼は一生懸命働き、いつでも欲しいものを手に入れていた。
必要とする以上のお金、豪華な大邸宅、愛情深い美人の妻、可愛らしくて頭が良く、よく言うことを聞き、頑張り屋の子供たち、多くの友人、大きな賞賛、それに尊敬。

その男性は37歳でリタイヤした。
そして、リタイヤしたまさに翌日、彼が自宅で1人静かに座っていると、突然、空虚で不完全なホームシックの気持ちが再び湧き上がってきた。

それは10代の時に感じた気持ちと同じもので、大金持ちになるために死ぬほど懸命に働くように駆り立ててきた気持ちと同じもの、生涯をかけて逃避しようとしてきた気持ちと同じものだった。
それは、お金や大邸宅、妻、家族を持つことで消えていくはずのものだった。そうなると世の中が約束してくれたものだった。

今になって、彼は大きな問題をかかえることになった。
欲しいものは全て手に入れたのに、まだ完全ではなかったのだ。彼はまだホームシックを感じていた。
彼の何が間違っていたのか、もはや彼には仕事という気をそらしてくれるものはなかった。再び欠乏感と直面した今、そこから逃げる道はなかった。

その夜、その若い大富豪は酒をあおった。もう一杯、もう一杯と。
まもなく酒の依存症となった。仕事への依存がアルコール依存とすり変わったのだ。
結局、彼の抱えていた壮大な欠乏感はどうにかして消し去らねばならなかった。

この男性の話は、探求者が欲しいものを手に入れても満足できない様子を表した申し分のない例だ
人が味わっている欠乏という根源的な感覚は、時間と空間の世界のいかなるものでも取り除くことができない。欲しいものを手に入れることでは、根本にあるホームシックは消えていかないのだ。

さらに別の問題がある。それは仏教徒が皆知っているように、諸行無常の世界、流動と変化の世界。最終的に自分のコントロールを超えた世界では、たとえ欲しいものを手に入れたとしても、その後手にしているものを失うことがあり得ると言うことだ。

結局のところ人生に保証は無い。現れるものは常に消えていく。
私たちは、心の奥深いところではわかっている。自分が持っているものを失う可能性から守ってくれるものは何一つとしてない。
だから人生でこんなにも不安を感じているのだ、と。新しい家を持てば、職を失ったらどうしよう。ローンが払えなくなったらどうしようと心配になる。
銀行口座に大金を預ければ、経済が崩壊して貯金が無になったらどうしようと心配になる、パートナーとの関係がどんなに幸せなものであっても、彼女が離れていったらどうしよう、病気になったらどうしよう、もっと悪いことがあったらどうしようと心配になる。子供が傷つくのではないかと心配する。自分自身の身体の心配、身体に問題を起こさせるもの全てに対して心配する。

そして、何一つとしてーー大邸宅も、家具も、豪華な車も、スイミングプールも、銀行口座にある全財産も、慕っているスピリチュアル・グルさえもーー失うこと、変化すること、流動すること、物事の成り行きから自分を守ってはくれないことをあなたは知っている。
もちろん、人や物は一時的に安心感や心地よさ、喜びの気持ちを与えてくれるが、あなたが本当に切望しているもの、あらゆるものを失うことからの解放、欠乏感からの解放、究極は死からの解放を与えてはくれない。渇望する壮大な安心感を与えてはくれないし、ふるさとへ連れて帰ってもくれない。
自分自身の外側にあるもので、ふるさとへ連れて帰ってるものは何一つないのだ

本当に私たちを幸せにさせてくれるものはくれるものは何でしょう?

ジェフ・フォスターが言っている「ふるさと」は、奇跡のコースでは私たちがもともといたにも拘わらず忘れてしまった「神の国」、本当の真実である「神との一体性」であると言っているものと同じかと思います。

その一体性から離れて、分離した存在、幻想である時間と空間の制限を持つこの世の中を、真実の実在であると思い込んだところから問題が生じたといいます。

このエピソードからもわかるように、「お金をください」と祈って、かなえてもらうのが人間の目標なのではなくて、お金がないという欠乏の不安がなくなって、満ち足りた平安がもたらされること、不安から自由になることが最も大切なのです。

本来の私たちは神という存在と同じですから「欠乏しているものは何もなく、全てのものを持っており、満ち足りています」しかし、分離を体験したときから他と比較するようになり、「他人は持っているけれど,自分は持っていない」などという思うようになってきたのです。

しかし、この考え方に一気に到達することはいかなる聖者と言えども困難です。お金に対する不安、愛に関する不安、子供に対する不安、そういう不安や楽しくない思いが出てきたその都度、「これは幻想の世界での思いであり。本当の自分の思いではない。」という心に、常に常にたゆまず切り替えて、いつもいつも自然と満ち足りた平安の気持ちを持続することが「習い性」となるようになれば、玉ねぎの皮を一皮一皮剥いていくように、潜在意識がきれいになってサトリの境地に達することでしょう。

この世の中で起きることで、どんな自分が好まないと思える事でも、必ず自分の魂にとって必要な出来事であり偶然はありません。
自分のシナリオに書かれたことは、どんない避けようとしても必ず起こります。また逆にシナリオに書かれていないことは起こらないのです。
起きることに対しては、一挙手一投足を瞑想及び赦しの実践のチャンスとして行けば、ついには不安は全くなくななってしまいます。

ただ赦しの実践あるのみ。
不安に満ちたエゴの考え方から、愛と平安に満ちた聖霊の考え方へのシフトあるのみです。

「祈り」という言葉から想像するものは何でしょうか? 私達は祈りというと、お寺や神社で手を合 ...

このところノンデュアリティーの動画をみることがありますが、日本人でノンデュアリティーの動画 ...

二元の世界から非二元の世界(ノンデュアリティー)に踏み込んでいきますと、非二元の世界はなん ...

奇跡のコースでは赦しが大きなテーマです。 私達はついつい何かが起こると不快な気持ちになった ...

赦しについて 奇跡のコースでは「赦し」が日々実践すべき最も大きな課題です。 また、毎日毎日 ...

私が若い頃、バグワン・シュリ・ラジネーシの著書をよく読みました。その後改名してOSHOとし ...

奇跡のコースとは? 奇跡のコースをひとことでいうならばどういうこものと言えるでしょうか? ...

最近の愛読書としても紹介しました、ゲイリー・R・レナードさんの「神の使者」に続く第2作で、 ...

神の使者の動画の続き(21~47)をご紹介します。 前の動画(1~20)と再生リストはこち ...

最近の愛読書として、私が奇跡のコースのワークに取り組むきっかけとなったゲイリー・R・レナー ...