お金にどう向き合うかは人生の大きな問題ですね?
お金は私たちにとって大変大切なものです。
人間が成長していく過程で、いろんな人生経験をしますが、その中で、子供の頃に家庭が十分のお金がなくて大変苦労したこと
本人あるいは家族が、事業に失敗したりなど倒産して、お金の工面に困ったこと、
お金に対する不安をあおる様々な出来事は、映画やドラマなどに溢れていますし、お金にまつわるいろんな情報が溢れていることから、お金をもうけたい、またお金をなくしたくない、など男女間の人間関係と同様人生最大の夢と課題となっています。
自分だけはお金に苦労したくない。お金に困ったらどうしよう。などといつも不安におののいているからこそ、若い内に一気にもうけてお金に苦労しない生活を夢見るなどということが若い人々の共通の夢となったりしているのです。
人生がすべて思い通りになった人はお金をどう見ているのでしょう?
私も小さい頃は結構裕福に育ったももの、中学生くらいで父が商売に失敗し、母親が働きに出なければならなかったことなどを経験しました。
また、企業に勤めて結構な給料をもらっていましたが、事業をしたい欲求を抑えきれず、環境関連の事業を興したまでは良かったのですが、資金に行き詰まり、金策に疲れた時には、周りの人々は楽しそうに結構裕福そうにやっているじゃないか。自分だけがなぜ子ども達に食べさせるお金をどうしようと思うような経験をしなければならないのかなど、お金には辛い思いをさせられました。そういう経験もあって私の潜在意識にはお金対する深い思いが染みついていたように思います。
それだけに本業も副業もあわせて、何とか将来苦労しないだけの経済的余裕だけは持ちたいという欲求がずっと心の中にあり、そのためにナポレオンヒルの成功哲学や引き寄せの法則などを熱心に勉強しました。またアレルギーでボロボロになった健康を回復するためと、潜在意識にあるお金の執着が消えるように、スピリチャアルな本も読みあさったりしたのです。
しかし、そういう探求をしている内にわかったことは、そういう現世の欲望を目標として次から次から求めていき、達成していったとしても決して真の満足は得ることが出来ないということでした。
これを示す良い例として、一つのエピソードを引用したいと思います。
この引用は、イギリス人で、非二元(ノンデュアリティー)の若き旗手であるジェフ・フォスターが書いた「もっとも深いところで、すでに受け容れられている」からの引用です。
「私は、40歳を前にして大富豪になった人を知っている。彼は一生懸命働き、いつでも欲しいものを手に入れていた。
必要とする以上のお金、豪華な大邸宅、愛情深い美人の妻、可愛らしくて頭が良く、よく言うことを聞き、頑張り屋の子供たち、多くの友人、大きな賞賛、それに尊敬。その男性は37歳でリタイヤした。
そして、リタイヤしたまさに翌日、彼が自宅で1人静かに座っていると、突然、空虚で不完全なホームシックの気持ちが再び湧き上がってきた。それは10代の時に感じた気持ちと同じもので、大金持ちになるために死ぬほど懸命に働くように駆り立ててきた気持ちと同じもの、生涯をかけて逃避しようとしてきた気持ちと同じものだった。
それは、お金や大邸宅、妻、家族を持つことで消えていくはずのものだった。そうなると世の中が約束してくれたものだった。今になって、彼は大きな問題をかかえることになった。
欲しいものは全て手に入れたのに、まだ完全ではなかったのだ。彼はまだホームシックを感じていた。
彼の何が間違っていたのか、もはや彼には仕事という気をそらしてくれるものはなかった。再び欠乏感と直面した今、そこから逃げる道はなかった。その夜、その若い大富豪は酒をあおった。もう一杯、もう一杯と。
まもなく酒の依存症となった。仕事への依存がアルコール依存とすり変わったのだ。
結局、彼の抱えていた壮大な欠乏感はどうにかして消し去らねばならなかった。この男性の話は、探求者が欲しいものを手に入れても満足できない様子を表した申し分のない例だ。
人が味わっている欠乏という根源的な感覚は、時間と空間の世界のいかなるものでも取り除くことができない。欲しいものを手に入れることでは、根本にあるホームシックは消えていかないのだ。さらに別の問題がある。それは仏教徒が皆知っているように、諸行無常の世界、流動と変化の世界。最終的に自分のコントロールを超えた世界では、たとえ欲しいものを手に入れたとしても、その後手にしているものを失うことがあり得ると言うことだ。
結局のところ人生に保証は無い。現れるものは常に消えていく。
私たちは、心の奥深いところではわかっている。自分が持っているものを失う可能性から守ってくれるものは何一つとしてない。
だから人生でこんなにも不安を感じているのだ、と。新しい家を持てば、職を失ったらどうしよう。ローンが払えなくなったらどうしようと心配になる。
銀行口座に大金を預ければ、経済が崩壊して貯金が無になったらどうしようと心配になる、パートナーとの関係がどんなに幸せなものであっても、彼女が離れていったらどうしよう、病気になったらどうしよう、もっと悪いことがあったらどうしようと心配になる。子供が傷つくのではないかと心配する。自分自身の身体の心配、身体に問題を起こさせるもの全てに対して心配する。そして、何一つとしてーー大邸宅も、家具も、豪華な車も、スイミングプールも、銀行口座にある全財産も、慕っているスピリチュアル・グルさえもーー失うこと、変化すること、流動すること、物事の成り行きから自分を守ってはくれないことをあなたは知っている。
もちろん、人や物は一時的に安心感や心地よさ、喜びの気持ちを与えてくれるが、あなたが本当に切望しているもの、あらゆるものを失うことからの解放、欠乏感からの解放、究極は死からの解放を与えてはくれない。渇望する壮大な安心感を与えてはくれないし、ふるさとへ連れて帰ってもくれない。
自分自身の外側にあるもので、ふるさとへ連れて帰ってるものは何一つないのだ
本当に私たちを幸せにさせてくれるものはくれるものは何でしょう?
ジェフ・フォスターが言っている「ふるさと」は、奇跡のコースでは私たちがもともといたにも拘わらず忘れてしまった「神の国」、本当の真実である「神との一体性」であると言っているものと同じかと思います。
その一体性から離れて、分離した存在、幻想である時間と空間の制限を持つこの世の中を、真実の実在であると思い込んだところから問題が生じたといいます。
このエピソードからもわかるように、「お金をください」と祈って、かなえてもらうのが人間の目標なのではなくて、お金がないという欠乏の不安がなくなって、満ち足りた平安がもたらされること、不安から自由になることが最も大切なのです。
本来の私たちは神という存在と同じですから「欠乏しているものは何もなく、全てのものを持っており、満ち足りています」しかし、分離を体験したときから他と比較するようになり、「他人は持っているけれど,自分は持っていない」などという思うようになってきたのです。
しかし、この考え方に一気に到達することはいかなる聖者と言えども困難です。お金に対する不安、愛に関する不安、子供に対する不安、そういう不安や楽しくない思いが出てきたその都度、「これは幻想の世界での思いであり。本当の自分の思いではない。」という心に、常に常にたゆまず切り替えて、いつもいつも自然と満ち足りた平安の気持ちを持続することが「習い性」となるようになれば、玉ねぎの皮を一皮一皮剥いていくように、潜在意識がきれいになってサトリの境地に達することでしょう。
この世の中で起きることで、どんな自分が好まないと思える事でも、必ず自分の魂にとって必要な出来事であり偶然はありません。
自分のシナリオに書かれたことは、どんない避けようとしても必ず起こります。また逆にシナリオに書かれていないことは起こらないのです。
起きることに対しては、一挙手一投足を瞑想及び赦しの実践のチャンスとして行けば、ついには不安は全くなくななってしまいます。
ただ赦しの実践あるのみ。
不安に満ちたエゴの考え方から、愛と平安に満ちた聖霊の考え方へのシフトあるのみです。