赦しについて

奇跡のコースでは「赦し」が日々実践すべき最も大きな課題です。

また、毎日毎日起こって来る日常の出来事を、たゆまず「赦し」を実践することが、エクハルトトールやバルセカール、トニーパーソンズなど他の非二元の考え方と一線を画す,大きな特徴であり、これが奇跡のコースを奇跡のコースたらしめている独特の考え方です。

しかし、「赦し」という概念は、これまで我々が経験してきた「許す」という通常の概念にひきずられて、なかなかコースの「赦し」が実感として理解できません

そこで、これまで我々が馴染んできた「赦し、許し」とコースの「赦し」の違いを考えて見ましょう。

一般的な赦しの概念

あなたは、社会に顔向けできない罪を犯したり、人を傷つけるようなことを言った。
あなたは悪い人間であり、またあなたのしたことは悪い事です。
でも私は寛容であり、あなたより優位な立場にあるのでそういうこともなかったことにしてあげましょう。

これが一般的に想像される許しということかと思います。

しかし、奇跡のコースでいう赦しは根本的にこれとは異なっています。

コースの赦しの概念

(他人が悪いと思って怒りを覚える場合)
あなたは神がつくった不死の精霊です。
あなたがした行いも言った言葉も、実際には何も起こらなかったことなのです。ですからあなたも私も全く何の罪もなく、全く無辜の存在です。

(私が悪いことをしたなど、自分を責める思いが起こった場合)
私は神がつくった不死の精霊です。
この肉体は単なるイメージにすぎません。
私とは何の関係もないもので、私も全くの無辜です。

このように書くと、罪を認識せず、私もあなたも悪くないなんて、反省も何もなく傲慢ではないかと受け止められるように思えるかもしれません。

また、相手のしたことや言ったことに怒りを感じる場合は、「なぜそんな人を私が赦さなければならないの」「そんなことを赦したらつけあがるだけじゃないの」などという感情がわきあがってくるのが普通です。

しかし、これらのことは本当は自分の潜在意識の中にあって、深く閉じ込められた罪の意識が、突然湧き上がってきて、他の人への攻撃として自分の外側に投影しているだけ、あるいは深く落ち込むことにより自分をも攻撃してしまっているだけなのです。

この世に起きていることは一見現実として確固としたもののように見えますが、実際には何も起きているのではなく単なる自分自身の潜在的無意識が外側に投影した夢にすぎないという考え方に転換することであり、この点において、これまで私達が行って来た視点と根本的に異っているのです。

コースは理論を勉強して知識を増やすとか。思想を習得するというものではありません。

毎日毎日、一瞬一瞬に起こる出来事に、不快な感情が生じたら、一呼吸を置いてそれらの感情を見つめ、良いことも悪いことも赦していくことを通して、

・この世が夢であること。

・本当の自分は無辜の存在で、神の王国を離れたことのないスピリチュアルな存在であること

を体得するための継続的なワークを行っていくものなのです。

たゆまないワークを毎瞬,毎瞬行っていくことが奇跡のコースが求めるものであると思います。

いいかえれば、「真の赦しが私の第2の天性になる」ということですね。

そしてこの行為をくりかえしていくことで潜在的無意識がどんどん玉ねぎの皮を一枚づつむいていくようにきれいになって行き、遂にはこの夢(幻想)も完全に無くなってしまうと言われているのです。

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奇跡のコースとは?

奇跡のコースをひとことでいうならばどういうこものと言えるでしょうか?

私も初めはそうだったのですが、「奇跡」という言葉から、まず初めに連想するのはこういうことでしょう。

・現実の世界で、思い掛けない遺産が入ったり、宝くじにあたるとか、何か大金が入ってくるようなことが起きる。

・突然白馬の王子様が現れて、急にもてもてになる。

・イエス様が奇跡を起こしたと言われるように、突然重い病に苦しんでいた人が、にわかに健康を回復する

などなどのことと思いますが、実はそんなことではありません。コースでは私達が現実と思っている世界は夢・幻想であるというわけですから、そういうものが奇跡のコースの目標であったり、本質であったりすることではないのです。

それでは奇跡のコースでいう「奇跡」とは?

・愛こそが全てであり、愛の表現として起こって来るものすべてが「奇跡」である。

・この宇宙や現実と思っているエゴの見方から、聖霊の見方に完全にシフトすること、それこそが「奇跡」である。

そのように思います。

他の宗教や哲学または思想とは何が異なっているのでしょうか?

奇跡のコースはJ(ジェイすなわちイエスキリスト)の言葉を口述筆記されたものと言われますが、それでは奇跡のコースはキリスト教の一派なのでしょうか?

まず最初に、奇跡のコースはキリスト教とは全く違うものであるという認識が必要です。
キリスト教はイエスキリストの言葉や思想をもとにつくられた宗教であるとされますが、旧約聖書、新約聖書と改定され、またいろいろな政治的思惑によって変化するなど、いろんな歴史的経緯位を経て全くキリストの思想とは言えないものに変化してしまっています。

奇跡のコースは、宗教の種類ではどういったものに分類されるかというと、どちらかというと仏教の思想に近いものですし、禅などの考え方をつきつめたものものと言えるように思います。

考え方の根本として、この世を白と黒、陰と陽、生と死、善と悪、高いと低い、男と女、など2つに分けて考える二元論が世の中の一般的な見方といえます私達は長い間、常識的な人間はすべて二元的に考えるものとして教育されてきました。

しかし、奇跡のコースはこの二元論の見方を超えた非二元論(ノンデュアリティー)という見方、言い替えれば、全ての宇宙も多くのばらばらに存在するように見える人間達も、すべては一つの心の投影であるという一元論の視点に180度変化させたものです。非二元論にもいろんな段階があり、またいろんな方々が独自の塩宇を展開しているのでそれはまた別の機会に触れますが、奇跡のコースは非二元論の立場をつきつめたものであることが大きな特徴です。

それを基本としている奇跡のコースの特徴をいくつかのキーワードをもとに箇条書きに列挙してみると以下のようになるのではないかと思っています。

1.実在するものは神(誤解を招く概念ですが、絶対的存在ということで便宜的に神っという言葉を使います)のみであり、神は一切変化せず、何者にも脅かされることはありません。私達も神の延長であるが故に神と一体であり、バラバラに見える人間達もすべて一つのスピリットとしての存在なのです。そのため、いかなるものからも危害を受けることはないのです。

2.神でないもの(実在でないもの)は一切存在しない
(この宇宙や現実世界は神が作られたものではないため、実在のものではないため、一切存在しない。存在しているように見えるとすればそれは夢(幻想)である。)

3.愛には不平、不満はありません(愛がすべてですから、愛に生きていれば不平・不満が生じるはずはありません。)

4.奇跡のコースは解釈するもの(理論や知識)ではなくその考え方を毎日の一瞬一瞬に生かすべきワークである。

5.奇跡のコースでは、私たちが行うことはただ一つ、すべてをエゴの見方から見るのではなく精霊の見方から見るようにシフトする訓練をすること。

6.奇跡のコースは、3冊もの分厚い本で成り立っていますが、考え方はたいへんシンプルです。しかし、それをマスターする(無意識に精霊の考え方ができるようにまでになる)のは容易ではないといわれます(それほどエゴのバリアーは強固であるということですね)。

7.奇跡のコースのカギは「赦し」ですね。毎日毎日起こる出来事のなかで、一見良いと思われることも、悪いと思われるkとも「赦し」の実践をしていくことが最も大切なことです。

8.本当の自分はスピリットであり肉体ではありません。
肉体およびこの現実と思っている社会は、自分のスピリットが作り上げた夢であり、幻想に過ぎないのです。
本当の自分は神の王国を離れたことはありません。したがって夢の世界から真の神の王国へ戻ることが人間の最終の目標となります。それが悟り(めざめ)と呼ばれてきたものではないかと思います。

奇跡のコースはたいへん奥が深いため、解説し始めるとテキストのようにたいへん分厚い本になってしまいます。そして理論はテキストで完全に記述されています。その理論や解釈は私どもがあれこれ書き加えるべきものでもレクチャーしたりするものでもありません。

私達の行うべきことは、奇跡のコースの解釈を議論することではなく、「エゴの見方を精霊の見方にシフトさせること」「赦しをあくまでもけいぞくす・実践すること」に尽きると思います。