このところ引き寄せの法則を強く意識する毎日を送り、「自分の経験を自分で意識してつくっていく」ということを実践していくにつれ、毎日が楽しく、日々喜びを感じるようになっています。
これまでもいろんな本を読んでは波動の引力、またイメージの力など、頭ではわかったつもりになっていたのですが、エイブラハムの言うがごとく、毎瞬、毎瞬をホッとした気持ちになるように、また少しでも気分が楽になるように思いを切り替えるということをしているだけでよいというのですから、非常にわかりやすく実践しやすい方法です。
しかし、その効果はすばらしいもので、すぐにでもその効果が実感できることがさらにモチベーションをあげてくれます。
これまでの時代は、一旦レールを決めればその目標に向かって何も考えずに人生を送っていてもそれなりの人生を歩んでいける、大変楽なわかりやすい時代であったといえます。しかし、近年は価値観も多様化し、社会・経済など周りの環境もあまりにも複雑になりすぎたため、そのようなものにわずらわされずに、人生をわたっていくためには、常に前向きに人生に取り組み、自分の人生は自分が責任を持ってつくっていかなければならない時代に入っているといえるでしょう。
そのための鍵を握っているのが潜在意識であり、無意識の力を有効に活用して自ら自分に素晴らしいこと、楽しいことを呼び込んでいかなければならないと思えるのです。
そういうことが簡単に実現できる、それもたいへん楽に可能となるツールが与えれたということは何とラッキーなことかと思わざるをえません。
エイブラハムに感謝です!!

今日は朝から倉敷音楽祭にでかけ、PENNY LANEという喫茶店での団塊デュオmrrock&canopusという名前で出場しました。
早速倉敷音楽祭のホームページには私たちの写真が載せられていて感激です。
今日の演目は「遠い世界に」「心の旅」「風に吹かれて」でした。
「遠い世界に」はいつものユニゾンとは違い、高音部のコーラスをつけたバージョンにしました。このバージョンが結構きれいにハモっていたとのことで何人かの方からの評価は良かったようです。
ギターでも気持ちのよいコードはワクワクしますが、人間はハモリが好きなんですね。うまくハーモニーができたら達成感や演奏後の気持ちのよさは格別です。
3曲目の「風に吹かれて」は何度も歌っていたもので、練習も手を抜いていたのですが、2人のリズムが合っていないと辛口の批評を受けました。
一緒に参加した他のメンバーもたいへん満足して演じられたようで、忙しい中、なかなか貴重な体験でした。みんなで力をあわせて何かをやりとげるというのはいいものですね。

過去の世界の有名人、成功者(成功の定義はさておいて・・・)はすべて運命の秘密を知っていたといわれ、アメリカでも大ヒットした映画「The Secret」のDVDがインターネットでも大きな話題になり、最近書店では「引き寄せの法則」関連の本が続々と発刊されています。
それらを読んでみますと、言っていることは仏教でも、また禅でも、言われていること、また「バーバの教え」、またそれを物質やお金の面で特化して書かれた永遠のベストセラー「ナポレオン・ヒルの思考は現実化する」など考え方の根本は同じであることがわかります。
しかし、なかなかそうは頭ではわかっているつもりでも、いざ現実の仕事や家庭の悩みなどに直面すると、なかなか実践していけないし、悩みや挫折感を抱いてしまうのが人間の人間たる所以なのかもしれません。
このところ「ザ・シークレット」の日本版、「ザ・キー」、「サラとソロモン」などを次々と読み続け、さらに「引き寄せの法則、エイブラハムとの対話」をなんとなく買ってしまいました。結局は「自分の経験や身の回りに起きる出来事はすべて自分の思考が作り上げている」ということ。つまり自分が磁石となって、「自分自身が引き寄せている」ということにつきるというものです。
 しかし、このアブラハムとの対話を読み、またまたおおいに感動してしまいました。最近は以前に書いたホ・オポノポノを実践し、自分の身のまわりに起こってくることが目に見えて変わってきていることを実感してきているのですが、その実感とあわせ考えると、この法則のすごいことがますます身に染みるように納得させられるのに驚嘆する思いです。
 自分の身の回りに起きてくることが明らかに変わってきている実感がある反面、しかしながら自分の考えに限界や制限を作ってしまっているということがあることを思い知らされるのがまだまだ未熟なところなのでしょう。
 しかし、そのような場面において、具体的にはどのようにすればいいのかが実践の方法としてたいへん詳しくまた具体的に書かれ、また、日ごろどうしても疑問に感じてしまうことも、質問と回答という形で非常にわかりやすく書かれているのが素晴しいところです。
 今の現在の私にとって気づかせてもらったことは数え切れないくらいにあるのですが、その中でもひとつ、以下のことは本当に素晴しい気づきになりました。
 それは、私たちは自分の経験は自分で引き寄せているとはいえ、自分の経験に他の人が割り込んできて、それに対処せざるをえず、結局は自分の環境や経験をぐちゃぐちゃにされるのではないか?ということを恐れてしまいます。しかし、エブラハムは「もしそういうことがおきているならば、それは過去の自分がそういうことになるのではないかという考えを持った結果であり、今この時点からその考えを変え、自分が見たいものや経験したいものにしか関心を向けないことを実践していけば、必ず引き寄せの法則が働き、自分が見たいもの経験したいものしか引き寄せないようになる」といい切っています。
これはこれからぜひ実践していきたいことです。
また仕事柄、公共事業に関するワークショップなどを実施したり、その提案などをしているのですが、自分のためのワークショップを日々実践していくことの必要性を感じています。最後に、この本に書かれていましたワークショップについて紹介しておきましょう。

ちょっとこのごろ疲れ気味だったので何か心の癒しになるものを・・と考えているときに素晴しい感動的なお話を見つけましたのでご紹介(引用)したいと思います。
以下、「奇跡の癒し」ホ・オポノポノについての物語です。

私は二年前に、ハワイに住む一人のセラピストの話を聞いた。
その人は触法精神障害者(注釈:刑法罰に問われる犯罪を侵したものの、 精神障害を理由に不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと) の病棟に収容されていた人たち全員を、 誰一人直接診察することなく癒したそうだ。
そのセラピストは患者のカルテを読み、 「自分が」どのようにして その人の病気を創りだしたのかを理解するために、 自分の内側を見たのだそうだ。そして、彼が自分自身を癒すにつれて、患者も改善したという。
最初にこの話を聞いたとき、都市伝説だと思った。 自分自身を癒すことによって 他の誰かを癒すなんてことがどうやってできるだろう? 最高の自己改善の達人であったとしても、 どうやって犯罪を侵すようなひどい精神障害者を癒すことができるだろう?
私には理解できなかった。 論理的な話ではなかったので当時の私は受け入れなかった。
しかし、一年後に同じ話をまた聞くことになった。 セラピストはホ・オポノポノというハワイの癒しのプロセスを使ったのだという。 初めて聞くものだったが、忘れることができなかった。
もしその話が本当なら、 私はもっと知らなければならなかった。
私は「完全な責任」とは、私の言動に対する責任は私にあるという意味だと前々から理解していた。一方で、 他人の言動のことは、自分の管理を離れていると。ほとんどの人たちは完全な責任というものを そのように考えているのではないかと思う。私たちは自分の行いに対して責任があるのであって、他の人の行いに対してではない。精神病の人々を癒したハワイのセラピストは、 私に「完全な責任」についてのより発展した新しい観点を教えてくれることになった。
彼の名はイハレアカラ ヒュー レン 博士。 私たちは最初の電話でたぶん一時間は話しただろう。 彼にセラピストとしての仕事の全貌を 語ってくれるようお願いした。 彼はハワイ州立病院で4年間働いたことを話してくれた。 触法精神障害者を収容していた病棟は危険なところで、 心理学者は月単位でやめていき、 職員はよく病欠の電話をかけてきて、やめていく人もいたそうだ。人々がその病棟内を歩くときには、患者に攻撃されないように壁に背中をくっつけて通ったらしい。それは生活するにも働くにも訪ねるにも心地よい場所ではなかった。
レン博士は実際には、一度も患者を直接には診なかったのだそうだ。
彼は自分の診療室を持ち、その部屋で患者のカルテに目を通すことに合意した。
それらのファイルを見ながら、彼は自分自身に働きかけた。そして彼が自分自身に働きかけるにつれて、患者に癒しが起きはじめた。
「2、3月後には、以前は手足を縛られていた患者たちが、自由に歩くことを許可されていました」と彼は言った。 「多量の投薬が必要だった人たちは、投薬をやめつつありました。そして退院の見込みのなかった人たちが退院していったのです。」
私は畏敬の念に打たれた。
「それだけではありません」彼は続けた。 「職員が仕事に来ることを楽しみ始めたのです。常習的欠勤や退職は消え去りました。患者は退院していくし、職員全員が仕事に来るようになったので、最後には必要以上の人数の職員が残りました。現在、その病棟は閉鎖されています。」
ここで私は問わなければ気がすまなかった。「それらの人々に変化をもたらすようなどんな事を、あなたは自分自身の中で行っていたのですか?」
「私は彼らを創りだした自分の中の部分(パート)を癒していただけです」と彼は言いました。
最初、私には分からなかった。
レン博士は説明した。「あなたの人生への完全な責任とは、あなたの人生の中の全てが単にそれがあなたの人生に存在しているというだけの理由であなたの責任なのだ」と。文字どおりの意味で、全世界があなたの創造なのだと。
ヒャー。これはなかなか納得できるものではない。自分の言動が自分の責任だということと、 私の人生におけるあらゆる人の言動の責任が私にあるというのは全く別の話ではないか。それにもかかわらず、実際のところは、もしあなたが自分の人生の全責任を負うならば、あなたが見たり、聞いたり、触れたり、その他どんな方法であれ、あなたが経験する全てがあなたの責任なのだ。それはあなたの人生の中にあるのだから。
これはつまり、テロリストの活動、大統領の決断、経済活動など、あなたが経験していて好きではないことを癒すのは、あなた次第だということである。言ってみれば、それらは存在してはいないのだ。あなたの内面からの投影である以外には。問題は彼らに関するものではなく、あなたに関するものであり、それを変えるには、あなたはあなたを変えなくてはいけないのだ。
このことは把握するのも難しく、ましてやそれを受け入れて実際に生きることはもっと難しいとわかっている。非難のほうが、完全な責任よりもはるかに簡単である。しかし、レン博士と話すにつれて私は気づき始めた。 彼にとっての癒し、そしてホ・オポノポノにおける癒しとは、あなた自身を愛することなのだと。あなたが自分の人生を改善したければ、あなたは自分の人生を癒さなければならない。もしあなたが誰かを癒したければたとえそれが精神障害を持った犯罪者であっても? あなたはそれを、自分自身を癒すことによって行うのだ。
どのようにして自分自身を癒すことに取り組んでいたのかと私はレン博士にたずねた。患者のカルテを見ていたときに、彼は具体的には何をしていたのだろう?
「私はただ『ごめんなさい(I’m sorry)』と 愛しています(I love you)』を何度も何度も言い続けていただけです」と彼は話した。
That’s it? それだけ?
That’s it. それだけです。
つまり、あなた自身を愛することが、あなた自身を好転させる最も素晴らしい方法であり、あなた自身を好転させるにつれて、あなたはあなたの世界をも好転させるということだ。 (キリスト教では、これと同じ事を「何よりもまず私を愛しなさい」という神様の言葉として説明している)
これがどのように機能するかの簡単な例をあげてみよう。
ある日、誰かが私を不愉快にさせるメールを送ってきた。過去そういう時には、私は自分に感情的な反応を引き起こすものについてワークしたり、あるいは意地悪なメッセージを送ってきた人に理を説こうとすることで処理したものだった。
今回私はレン博士のメソッドを試すことにした。私は「ごめんなさい」と「愛しています」を
声に出さずに言い続けた。特定の誰かに向かって言ったわけではなかった。私はただ愛の精神を呼び起こし、この外側の状況を創り出した自分の中を癒そうとしただけだった。
一時間もしないうちに同じ人からメールが来た。彼はさっきのメッセージについて謝罪していた。
私は謝ってもらうために 外側に何も働きかけをしていないことを覚えておいてほしい。 私は返事すら書いていなかったのだ。にもかかわらず、「愛しています」と言うことで、私はどういうわけか彼という存在をこの世界にあらしめていたていた 自分の内側を癒すことができた。
その後、私はレン博士が開いたホ・オポノポノのワークショップに参加した。 彼は今では70歳で、優しい祖父のようなシャーマンと見なされていて、少々引きこもりがちである。 彼は私の著書『The Attractor Factor』をほめてくれた。私が自分を向上させるにつれて、私の本の波動が上がり、人々が本を読むときに皆それを感じるだろうと彼は語った。
要するに、私が向上すると、私の読者も向上するということだ。
すでに売られて外に出ている本についてはどうなんですか?と私はたずねた。
「それらの本は外にあるのではないよ。」 と彼は述べた。
彼が持つ神秘の知恵に私はとても驚いた。「それらの本は未だにあなたの中にあるんだ」
つまり、外なんてないということだ ! !
この高度な技術を、それが値する深さとともに説明しようとしたら、
本が一冊書けるだろう。あえて言うなら、あなたがあなたの人生の中のどんなものでも改善したいのなら、見るべき場所はただひとつ、あなたの中である、ということだ。
“When you look, do it with love.”
「あなたが見る時は、愛をもって見るように」
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追補:レン博士のメソッドでは、4つの言葉を繰り返すことで自分を癒すということです。
その言葉とは
1 “I love you”(愛しています)、
2 “I’m sorry”(ごめんなさい)、
3 “Please forgive me”(許してください)
4 “Thank you”(ありがとうございます)
です。これらの4つの言葉を 内なる「The Divine」に対して言います。
これらの言葉は、自分を浄化するための言葉で、これらの言葉を繰り返す際には必ずしも感情を伴わなくても良いとレン博士は言っているということです。
けれども、とにかく心の底に届くまで、何度も何度も繰り返すのだそうです。
私はこの話しを教えてくれた兄弟と、私たちの創造主に心からの感謝を捧げます。

以上引用ですが、私もこの癒しについてぜひ研究・実践してみたいと思います。

先週の金曜日17日は前から見たいと思っていましたモーツァルトの「魔笛」が映画化され、岡山でも上演されているということで、見に行ってきました。
その前週の土曜日に行くつもりでいたところ、映画館の上映時間を調べましたら10時45分から毎日1回しか上映していないことがわかり、毎日1回の映画館など初めての経験だったのと、もう上映打ち切り間近で、ウィークエンドに見に行く機会がないことでちょっと落胆していました。
しかし、この機会を逃すともう2度と映画館では見られないのではないかと思い、思い切って最終日の17日に夏休みをとって夫婦同伴で見に行ったわけです。
始めは舞台が第一次世界大戦であり、どんな風にケネス・プラナー監督が難しい魔笛を料理しているのか、ちょっと楽しみでもあり、心配でもあったのですが、結論として、今までにDVDなどで見たものより一番良いとも言えるぐらいの迫力と仕上がりで、わざわざ休みを取ってみた甲斐があるというくらいに感動しました。
もともと魔笛の筋はストーリー的には不可解な部分があるもので、そのようなことは気にせずに、全編美しいメロディーにあふれたミュージカル映画として割り切るのが大切で、そういう目で見ていると、本当に楽しめる素晴らしいものです。
音楽、また随所の美しい光と色が織り成すシーンも素晴らしく、これでもか、これでもかという音楽、映像の連続で、冗長すぎて退屈するというひまもないくらいに楽しむことが出来ました。
どんなに良いオペラ作品などでも、途中には退屈するようなメロディーなどがあるものですが、魔笛だけはどうしてこんなに切れ目なく美しいメロディーが連続してあふれてくるのだろうと、改めてモーツァルトの偉大さに敬意を表さずにはいられません。
俳優はオペラ歌手を配しているようですが、あまり新しい歌手を知らない私にはなじみのない方ばかりでした。しかし、ザラストロ役のルネ・パーペの顔は、2006年のザルツブルグ音楽祭の特集で、「ドンジョバンニ」の「カタログの歌」を歌っているのを何度も見ていましたのでたいへん親しみやすい気がしました。ルネ・バーべはオペラの舞台ではなく、コンサートの歌手として歌っていたのですが、この映画の方が歌もうまく、低音の迫力が一段映えているような気がしましたし、また非常に落ち着きのある、また素晴らしい人格者のザラストロ役をうまく演じていたと思います。
この映画を見て一番感動したのは、この魔笛のメッセージが、まさに今の現在に必要としていることであり、モーツァルトが今日の世界的状況を透視して、まさに我々のために創ったのではないかという思いに至らせてくれたことです。
2012年に至るまでのまさにこの時期は、精神の高みに上るため、そしてパラダイムシフトを経験せざるをえない、何万年に1回の大切な時期ですが、この今こそ、この魔笛に描かれた試練を通過し、新しい精神世界に脱皮しなければならない時期なのだということを実感させてくれるものでした。。
この映画もみにシアター系の映画としてかなりヒットしているようですが、この映画を通して改めてモーツァルトの偉大さと魅力に、そして「魔笛」を好きになって愛と平和がかけがえのないことにたくさんの人が実感してくれるようになれば素晴らしい世の中になるでしょう。
何とかそうなって欲しいものですね。

昨日は地元の楽器屋さんのホールでフォークライブに出演しました。
会社の若者のロックライブに、急遽前座で賛助出演しようということで、2ヶ月ほど練習を重ね、団塊の世代、同年代の方とのデュオでしした。
われわれフォーク世代にとっては懐かしい歌を特集してやってみようということで、急遽出演したものです。
演目は
1.22才の別れ
2.遠い世界に
3.Puff
4.風に吹かれて
5.あの素晴しい愛をもう一度
というものでした。
当初曲目を決めるのが大変でした。
演奏者二人でカラオケのできて、お客さんがほとんどいない店で、いろんな歌を歌って演奏曲を決めようということになり、おばさんが一人でやっていていろいり雑多な家庭料理を出す店があったので、そこに4時間ほど入り浸り、50曲ほどのカラオケを歌って、おばさんの感想も参考に候補曲を決めました。
しかし、その時にリストアップし、優先順位をつけていたメモを相方が紛失するやら何やらと初めから苦難の道が予想されました。
練習不足もあったのですが何とか形も決まって結構楽しめました。
目標を持って練習し、やり終えた後の爽快感は格別です。
またまた癖になりそうです。

前々から気になっていたのですが、父が昨年死んだこともあって、昔父と一緒に見に行った御用金という映画をもう一度見てみたいとずっと思っていました。
この映画は昭和44年上映とのことで、かなり古い映画なのですが、五社秀雄監督、仲代達也が主演で、この舞台が越前鯖井藩となっていますから今の福井県の鯖江あたりになるのでしょうか?鯖江は昔両親が住んでおいて学生時代に良く行きましたし、雪国特有の淋しげな風景が大変懐かしく思い出されます。(しかし、この映画は下北半島でロケされたとのことですが・・・)
また、もうひとつ忘れられないのは映画の最後に御陣乗太鼓という能登の輪島に伝わる太鼓の迫力ある映像が流れることです。はじめてみたこの太鼓が、多感な青年時代に強烈な印象を私に植え付けました。海岸での和太鼓の強烈なリズムとわかめをつけた幽霊のような面をかぶって踊る姿は忘れられないものとなりました。
このDVDやビデオをレンタルビデオ店でずっと探し続けてきたのですがなかなか見つからず、インターネットで検索したところ、やはりこの映画の再上映やビデオ化を待ち望んでいる方々もおられるようでしたが、まだビデオなどにはなっていないようでした。しかしアメリカではこの映画の評判が良く、1976年にはアメリカのフランク・ローリンという監督が「The Master Gungighter」という題名で西部劇版のリメイクを撮っているそうで、この映画も「Goyokin」というタイトルでDVD化されて購入できるということを知り、早速購入しました。リージョンは米国仕様なのが残念ですが映像はたいへんすばらしく、日本初のパナビジョン映画でもあり娯楽映画としては市川雷蔵の眠狂四郎シリーズと併せて私の秘蔵版となりました。
あらすじはこのようなものです。越前(福井県)鯖井藩の家老・六郷帯刀(たてわき)(丹波哲郎)が、財政困窮のため、佐渡から運んでくる幕府の御用金(金の延べ棒)を積んだ船を沈没させ、その御用金を奪い取るという計画をたてます。その時御用金を船から引き揚げる手助けをした小さな村の漁民たちを口封じのために皆殺しし、「神隠し」として葬ってしまいます。この策謀に参加した藩士・脇坂孫兵衛(仲代達矢)は帯刀の残酷なやり方に反感を持ち、脱藩して浪人になり江戸に渡ります。孫兵衛(仲代)は帯刀(丹波)の親友でもあり、彼の妹(司葉子)を妻にしていましたが別れてしまいました。孫兵衛は江戸で鯖井藩が差し向けた刺客に会い、帯刀がまた、「神隠し」の手を使って、御用金を奪い取ろうとする策謀を知ります。そして、さむらいとして以前に帯刀にやり方に反感を持ちながらもそれを許して斬らなかった自分を許せなくなり、今度こそこれを阻止し、弱い漁民を助けるために、藩に戻ろうと決意します。途中で以前の神隠しで一人生き残った漁村出身の女(浅丘ルリ子)や左門という賞金稼ぎを生業とする謎の浪人(錦之助)に出会い、彼らの協力も得て、孫兵衛は帯刀が送った刺客たちと闘います。左門という浪人は、藩の策謀を探ろうとする公儀の隠密でした。
斬りあいも迫力がありますが、マカロニウェスタン風のストーリーやさむらいとしてどう生きるべきかなど仲代達也の渋い感動的な演技と迫力のある映像が楽しめます。

人間の生き方、あるいは仕事に対する姿勢として、こういうようにあれたらいいなということは誰しも考えることでしょう。
 ある時ふと手にして、社会人になる息子たちにも是非読んで欲しいと思っった本があります。
それはガルシアへの手紙という本です。その感動的な素晴らしい本を紹介してみたいと思います。

キューバ事件に関するあらゆる事柄の中で、ある人物の存在が、私の記憶の中では、火星が大接近してきたときのごとくはっきりと抜きんでている。
かつてスペインと合衆国の間に戦争が起こったとき、早急に反乱軍のリーダーと連絡を取らなければならなくなったことがある。その男ガルシアは、キューバの山奥のどこかにいるとのことだったが、誰もその所在を知るものはいなかった。郵便も電報も、ガルシアの元へは届かなかった。だが大統領はなんとしてもガルシアの協力を取り付けなければならなかった。しかも早急にだ。
 どうすればいいのだ!
 誰かが大統領に進言した。「ローワンというものがいます。彼ならば必ずや大統領のためにガルシアを見つけてくれるでしょう。」
 ローワンは呼び出され、ガルシアに配達されるべき手紙を渡された。「ローワンという名の男」がいかにして手紙を受け取り、防水袋に密封し、胸の所に革ひもでくくりつけ、四日後の夜に単身ボートにてキューバの海岸に近づき、ジャングルに姿を消し、そして三週間後にキューバ島の別の海岸に姿を現したのか、つまり、いかにして敵地を自分の足だけを頼りに横切って、ガルシアに手紙を配達したのか、その詳細をここに書き記すことは私の本意とするところではない。
 ここで述べたいのは以下の点である:マッキンリー大統領はローワンにガルシア宛の手紙を託した。そのときローワンは、手紙を受け取るに当たって「その人はどこにいるんですか?」などと尋ねなかったのである。なんという男! 彼こそは、その姿を銅像に残し、国中の学校に設置し、もって永遠にその業績をたたえるべきである。
若者に必要なのは、机上の勉強や、あれやこれやの教えなどではない。背筋をビシッと伸ばしてやることである。そうすれば、若者はおのずと課せられた信頼に応え、素早く行動し、精神を集中させ、そして「ガルシアに手紙を持っていく」人物となっていくであろう。
 ガルシア将軍はもうこの世にはいない。しかしガルシアは他にもたくさんいるのだ。
 多くの人手を必要とする大事業を実現しようと努力してきた人間ならば、きっと愕然《がくぜん》としたことがあるだろうが、普通の人間はあまりに愚鈍《ぐどん》で、一つの事業を成し遂げようとする能力も意志も持ち合わせていないのである。
いい加減な手助け、愚かなうっかりミス、どうしようもない無関心、そしていい加減な仕事、こんなものが幅を利かせているのが現状なのだ。
そういうものたちをひっかけたり騙したりおどかしたりして、強制的にやらせるか、お金で釣るか、あるいは神がその善き御心から奇跡を起こし、光の天使をアシスタントとしてつかわされたりされない限り、事業を成功させることはおそらくできないだろう。
 読者におかれてはぜひ以下に示すテストを試みられたい。あなたは自分のオフィスに座っている。そして六人の部下を使っているとしよう。
 ここで誰か一人を呼びだし、こう命令してみるのだ。「百科事典を見て、コレッジオの生涯について短いメモを書いてきて欲しい。」
 さて、部下はすぐに「分かりました。」と言って仕事に取りかかるだろうか?
 おそらくあなたの状況では、そうはならないだろう。たぶん、どんよりとした目であなたを見つめ、こんな質問をいくつか聞いてくるだろう。
 「コレッジオって誰ですか?」
 「どの百科事典を見ればいいんでしょうか?」
 「百科事典のどこに載っているんですか?」
 「私はそのために雇われてるんですか?」
 「ビスマルクとは関係ないんですか?」
 「チャーリーにやらせたらどうですか?」
 「その人は故人ですか?」
 「どれくらい急いでやればいいんですか?」
 「本を持ってきますから、ご自分でなされたらどうですか?」
 「いったい何が知りたいのですか?」
 そして、賭けてもいいが、あなたが以上の質問に答え、いかにして資料を探すのか説明し、なぜそれが知りたいのかも話した後に、部下は部屋を出て、他の部下の助けを借りながら、“ガルシア”を探そうと試みた後で、引き返して「そのような男は存在しません。」と報告するだろう。もちろん私が負けるかもしれない。しかし、平均の法則によれば、私は負けはしない。
 あなたがもっと賢明であれば、「部下」に対して「コレッジオ」は「K」じゃなくて「C」の項にあるんだよと付け加えることはせずに、にこっと笑って「気にするな」と言って自分で探しに行くに違いない。
 こういった自分から行動を起こさず、道徳心のかけらも持ち合わせず、なんのやる気も持たず、みずから進んで気持ちよく頼まれごとを引き受けようとしないなどという行動をするから、真の福祉社会がいつまでたっても実現しないのだ。
自分のためにだって行動を起こさないのに、そんな人たちがみんなのために何か行動を起こすのだろうか? 棍棒でむりやり行動させるナンバー2が必要になるだろう。土曜の番にはクビに対するおそれから、実におおぜいの社員が職場にとどまらざるを得ないのである。
 速記者を募集しても、十人に九人はスペルも綴れず、句読点の打ち方も知らず、しかもなぜそれが必要なのかすら考えていないのだ。
 そのような男にガルシアへの手紙を書かせることができるだろうか?
 「あの簿記係、いるでしょう。」ある大工場で工場長がこう言ってくる。
 「うん、それがどうした?」
 「えぇ、あいつ、計算は立派にやるんです。ですが、あいつを街に使いをさせると、だいたい要件は終わらすんですが、たまに、四軒酒場に寄り道して、大通りについた頃には、何を言われたのか忘れちまってることがあるんですよ。」
 こんな男に、ガルシアへの手紙を持っていくよう頼むことができるだろうか?
 私たちは最近、「非人間的な工場にて虐《しいたげ》げられた社員」や「すばらしい雇い主を捜す浮浪者」に対する、いささか感傷的な同情の念をよく耳にする。
 それにはしばしば、力ある人間に対する厳しい言葉がたくさんくっついていることが多い。それに対して、雇い主に対してそのように言われることは全くない。彼らが薄汚いろくでなしに知的な仕事をさせようとむなしい努力を続けた末に、実際の年より老けてしまったり、何もしないのみならず、背中を見せるとサボりだすような人の「助け」を当てにして長いこと我慢強く奮闘しているのに、である。
 あらゆる店や工場の中で、無駄を取り除こうという努力が日々続けられている。雇い主は、仕事での利益を最大限上げるなどという能力を持ち合わせていない「助っ人《すけっと》」を日々追い出して、代わりの人を雇い続けている。好景気の時でさえこのような努力が続けられているのだから、万が一景気が悪くなって仕事がなくなってきたら、よりいっそう人員整理が激しくなり、能力を持たない下らぬ輩は職を失い、二度と仕事に就けなくなってしまうのだ。
 それが適者生存というものなのだ。自己の利益を追い求めんがために、あらゆる経営者がベストを尽くそうとする、これすなわち、ガルシアへの手紙を運べる人を雇い続けることにつながるのだ。
 私は最近、才能あふれる紳士と知り合った。彼は自分自身のビジネスを運営する能力を持っていないのであるが、それにも関わらず、他人のために役立つことが全くないというのだ。それというのも彼は、雇い主がいつも自分を虐げている、あるいはそういう目的をもって行動しているというおよそばかげた妄想を抱き続けているからなのだ。彼は他人に与えることができない。従って、他人から何かを受け取ることもない。もし彼に、ガルシアに手紙を持っているよう命令したならば、その答えはきっとこうに違いない。「自分で行けば。」
 今夜もこの男は仕事を探して通りを歩き続けるだろう。すり切れたコートのほつれからピューピュー風を通しながら。彼をあえて雇おうというものに誰も心当たりはない。それは彼が先頭を切って不平不満をあおるからなのだ。しかも鈍感ゆえにそれが分からない。分からせるには底のあつい革ブーツでけ飛ばしてやるしかない。
 もちろん、このような心のねじ曲がった男たちなんて、身体障害者ほどの同情に値するものではない。むしろ、同情の涙は別の者たちのために流そうではないか。つまり、偉大なる目的のために就業時間など関係なくひたすら努力している人、そして、自分を無視する者やだらしない無能力者、心ない恩知らずたちを率いて苦闘してきたおかげであっという間に白髪を抱えてしまった人たちにこそ流してやるのだ。もし彼らの事業がなくなれば、そんな輩はたちまち貧乏となり、ホームレスになってしまうのだから。
 私は言い過ぎてしまったんだろうか? 多分そうなのだろう。だが、世界中がスラムを抱えている今、私は成功してきた男たちに激励の言葉をかけてやりたいのだ。彼ら成功者たちは、その目的のために他の人たちの助けを集め、成功してきたのにも関わらず、何も手元に残らないのである。ただ住む所と着るものを除けば、本当に何もないのだ。
 私は弁当箱を持っていって日雇い仕事をしたこともあるし、人を雇ったこともある。だから、両方の立場について何を言うべきかよく分かっている。貧乏なことはそれ自体美徳ではない。襤褸《ボロ》を着ることは誉められることではない。雇い主がみな強欲だとか高圧的だとかいう主張は、あらゆる貧乏人がみな有徳の士であるという主張と同じくらい間違っている。
 私の関心は、「ボス」がいようといまいと、同じように仕事をする人に引きつけられる。彼こそはガルシア宛の手紙を与えられれば黙ってそれを受け取り、無駄な質問もせず、手近な下水道に手紙をこっそり投げ捨てたりせず、よそ事をしないで手紙を届ける男であり、そういう男ならばレイオフ宣告を受けることもなく、高い賃金を求めてストライキを打ったりする必要もない。
文明世界はそのような人間を熱心に捜し続ける一つの長い道程である。そのような男が求めるものはなんだって与えられるだろう。彼のような性格の持ち主は非常にまれであり、雇い主には彼を手放す余裕など持てないものである。彼はあらゆる都市、町や村で――どこのオフィスでも店でも、倉庫でも工場でも――必要とされている。全世界が彼を呼んでいるのだ。
「ガルシアへの手紙を届けられる」人間は、どこでも、本当にどこでも必要とされているのだ。

宇宙を陰陽の原理で説明し、日本よりもむしろ欧米で大人気のマクロビオテック料理の創始者である桜沢如一さんが書かれた1940年発行の「魔法のメガネ」を読み返してみました。
その中にインドの偉大な聖者の一人で、その肖像画がインドの切手にもなり、ガンジーにヨガの指導をしたことがあるといわれる、ヨガナンダ・パラマハンサ(この人が亡くなったときには、遺体が20日経っても一切腐敗しなかったそうです。)の言葉を紹介していたのがたいへん印象に残りました。

人生経験をあまり生真面目に考えないことです。なぜなら、現実界においての経験などというものは夢みたいなものだからです。
人生におけるあなたの役割を楽しむことです。ただ、それがあくまでもあなたの役割であるいうことを忘れないことです。

私はこのブログの表題を「人生を楽しく生きるために・・」としているのですが、その真意はこのパラマハンサの言われたような世界観を基にしていることまで理解していただいていた方がおられたとすれば、大変うれしいことです。
ただうわべだけの「人生を楽しむ・・・」だけれあれば人生ってあまりにももったいないですよね。

前々からなのですが、最近特に気になっていることがあります。
それはマヤ暦が2012年で終わっているということです。何を意味するのかたいへん興味があります。
インカのマヤ暦、インディアンのホピの予言、日本の「日月の神事」など世界中に同じような言い伝えなどがあり、ユングの言う共時性(シンクロニシティ)があるようです。
私は2012年から、これまでの世界とは全く異なった、本当のパラダイムシフトとも言うべき、素晴らしい世界が訪れるような予感がしており、これを見届けるまでは絶対に死ねないという気がしているのですが・・・しかし、それに到る経緯はたいへんなこともあるのでは。